2011年12月 3日 (土)

覆水

ノンアルコールビールの売れ行きが3倍に伸びているらしい。

飲んではいけないときに、
飲んだ気になることができるとのこと。

そんなもの我慢すりゃええんじゃなかろうか。
と思う自分は古いのだろうか。

そんなに簡単に満たしてしまったら、
楽しみも減るじゃないかと訝っても、
目先の便利さには変え難いのかもしれない。

最近特にこの手の商品が増えているように感じる。

選択肢が増え便利になることは、聞こえはいいが、
手軽に欲望を満たすきとで日々の波が平準化してしまうのは、生きる上での本当の楽しみを失っているのかもしれない。

同時に本当の危機において、自分自身をコントロールするための日々の小さな練習機会を奪うことは、人を根本から侵食しかねないと思うのだが、心配しすぎだろうか。


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2011年10月15日 (土)

目を皿に、耳をダンボに。

つくづく普通でありたいとおもう。

ジオングよりもザク
ガンダムよりもジム
普及機を巧みに乗りこなしたい。

って話じゃなくて
今日も真面目な建築の話。

先日書いた生活に向き合うって事は、

日常であるって事だ。

そう、徹底的に。

いうなれば超日常。

建築は戦後の黎明期を除き、これまで非日常に重きをおいてきた。

これは断言していいと思う。

もちろん街場で日常に向き合ってきた先輩方もいるが、少なくとも中央で日常に焦点を合わせた建築家は数える程しかいない。

建築はえてして、壮大さ、壮麗さ、上質、洗練など、そうした価値観に寄り添いがちだ。

住宅でも何処か浮世離れした日現実性を帯びている、現代においては生活そのものを否定ないしは目を背ける事で、まだ見ぬに空間を求めて己の道を極めんとしているように思える。

もちろん街場で日常に向き合ってきた先輩方もいる。しかし、そうした活動にスポットライトが当たる事はない。

なぜならば、日常とは繰り返しや退屈、平凡といった作家を自負する建築家が最も恐れる終着点とみなされてきたからに他ならない。

果たしてそうだろうかというのが、最近の実感である。
日常性にこそ、全ての源があるのではないだろうか。

そして、なぜ建築家は作家でなければならないのか。
大いなる日常の実践者としての建築家像は成り立たないのか。

私はここに挑みたいと思う。

目の前の人に、生活を少しでも良くしたい。

当たり前の日常を開拓したい。

単なる繰り返しや退屈の中から喜びを紡ぎ出したい。

最近心からそう思えるようになってきた。

それに気づかせてくれた、多くのお施主さんに感謝したい。
さらに先を目指し日常を極めて行きたいと思う。

多くの人に共感してもらい、それぞれの切実な生活に気軽に取り入れてもらえるような日常性を発見し深めていきたい。

ただ当たり前は思考停止ではない。

当たり前の出来事の中に、まだまだ改善や転換の余地があろう。

その為には、全身を研ぎ澄まし、日々の自分自身の生活の中で普通とはなんなのかを問うていきたいと思う。

ジオプラスのスタッフの諸君、まずは便所掃除からだ。

全身全霊、本気で便所掃除。

あの狭き一畳の空間の中で、まずは10個発見しようじゃないか。

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2011年10月14日 (金)

断ち切る者

現代が抱える問題の多くは、その考え方、解決の仕方自体にあると思われる。

それは、昭和という時代が採用した全体から考えるという思考形態だ。

物事をまず、全体から俯瞰して、方針や行程、コストなど、大枠を決めてから取り掛かるという、ごく当たり前に行っているスタイルだ。

この全体から考えるというスタイルはいつ頃から誰が考え出したのか。

時期は不明だが、私にはこの「全体から考える」という方法は、何かを全体的にコントロールしようとする時に必然的に生まれた思考方法に思える。
考え出したのはおそらく支配者の側ではないだろうか。

誰かを説得し、合意を得たりねじ伏せたりしながら進めなければならないような事業は、明快な説明性と終始貫徹した態度が必要であろう。

定型的な想像になってしまうが、コンプレックスを原動力とした戦後の復興の中で、一市民に至るまで、全体から考えるという効率的方法の採用を迫られ、いつしか当たり前の思考方法として定着してしまったのではないだろうか。

そうした全体からの思考が当たり前の支配層の担当する軍事や政治に対して、狩猟や農業、漁業などの自然と相対する生活や日々の商いはそうした全体性とは本来無縁である。

であるならば平時において、一般生活者にこのような思考方法が必要だったとはとても思えない。

むしろ目の前の事象や状況に対する感度を上げること、そのための細やかな変化の兆しに対する知識やノウハウを蓄積し、その時々に応じてそれらをいかにく見合わせ事態に打開を図るかに終始したのではないだろうか。

それはいってみれば、部分から考えるという思考方法である。

部分からの取組の特徴は、非効率である。

全体を捉えて、力を配分る方式に比べ、毎回全力でことに当たるため、効率は圧倒的に悪くなることは明らかだ。

また、部分対応の結果、全体に筋が通らなくなり明らかな一貫性も諦めなくてはならないだろう。

そもそも生活と向き合うといことはそういう事である。
その場、その時の切実な現実に全力で向き合う事、その蓄積こそが全体であり、その輪郭は刻々と変わるのだ。
部分にこそそれぞれの生き様や哲学がもっとも明確に刻まれているのであり、全体性には無頓着に違いない。

生活とは効率も生産性も悪いものである。

だからこそ一日一日が充実し、それぞれの瞬間が生き生きと躍動感に溢れていたのではないか。

現代の様々な問題はそうした生活を無視した全体性から生じているように感じられてならない。

我々も全体からの思考はもうやめにしよう。

昭和の建築ほど全体性が発揮された時代はあるまい。

まだその流れは続いているが、我々の世代がいまここで時代を断ち切り、もう一度建築を生活に引き戻さなければならない。

日常の当たり前の生活に真正面から向き合い、ごまかしのきかない切実な現実に向き合う事。
そうした部分からの思考こそ、いま最も必要だと思うのだ。

その部分と向き合った成果をフィードバックし、さらに全体とどう関連づけるのか。
それは次の世代が向き合うテーマとなるだろう。

我らに課せられた断ち切るものとしての役割をしかと果たしたいと思う。

クローソーよ、我が立ち回りしかと見届けよ。

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2011年10月 1日 (土)

流れ

木を見て森を見ず。

まさにこれまでの私のバレエ鑑賞態度である。


バレエといわれてまず思い浮かぶのは、

一部の隙もない身体だった。

そのしなやかさ、ジャンプ、回る姿やスピードに

たゆまぬ訓練により

高度に制御された身体が、

磨き抜かれた技術を発揮する時、

美を感じる


で、あろうと期待していた。


しかし、その感動が訪れない。


舞台では、

確かにすばらしい身体のダンサー達が

技の限りを尽くしているのだが、

どうも入ってきないのだ。

ただ似た様な踊りが繰り返され、

形式的なシーンが続いている様に思われた。

これが何処かのアマチュアバレエ団のことならば、

演者に責を期することも出来様が、

今回は、熊川哲也さんの白鳥の湖である。


これは、大問題である。

技術も評判も文字通り日本のトップである。

しかも最もわかりやすい演目らしい。


さては伝統芸術にありがちな構造的欠陥であろうか。


そうではあるまい。

なにかがまちがっているとするならば、

こちらの見方に違いない。


そう思い直し、ならばいっそ見ないことにした。

身体も技も見ない。

舞台全体をぼーっと俯瞰するのだ。

意識は限りなく散漫に、ただただオーケストラの音楽と舞台で展開する絵巻物を眺めていると、

なにやら舞台の袖が気になるではないか。

「あら、熊川さんじゃありませんか。」

舞台の中心で、必死に踊るダンサーを尻目に、

その衣装からは決して踊ることはないであろう役者と

なんだか小芝居をしているじゃないか。

こいつはひょっとして…。

それから彼の演技だけではなく、

登場する役の演技に意識を向けて観たところ

どんどん入ってくるじゃないか。


これは考えてみればごく当たり前のことなんだが、

舞台芸術である。

しかも、コンテンポラリーと違い

わかりやすい歴然とした物語があるのだ。

!!!

私は彼らの卓越した身技に目を奪われ、

肝心の役の心の動きに不感症になっていた。

そうした目でみるならば、

舞台で繰り広げられているものは、

人間の心の動きそのものである。

音楽と舞台全体が渾然一体となり、

片隅の王子の苦悩や喜びを表現している。

素晴らしかった。

流石に世界の熊川だった。

もちろん多くの観客が期待するジャンプやターンも見事だったが、

その身体と技は、ただただ表現のために磨かれていた。

芸術は流れなのだ。

流れであるからこそ、退屈な繰り返しに見えた演技が必要なのだ。

ディテールを変化させながら繰り返す音楽のフレーズの様に。

それに身を任せその芸術の世界に溶け込むと思考の時が訪れる。

自らと表現の波長をシンクロさせる。

これはもちろん演劇でも、オペラでもおなじである。

だから歌舞伎では客が掛け声をかけるのだ。


絵画でも、停止している様だが、

カンディンスキーを観た時の絵がうごめく感覚は忘れられない。

対象的にスポーツは突発的に起こるアクシデントに力点がある。

対戦相手にとっても観客にとっても不意打ちに繰り出されるすごい技。

そういう意味では、スポーツは瞬間だ。

どうやら私は流れを見るはずの表現の中に、

スポーツ的な瞬間を期待していたらしい。

これを建築に置き換えると

ものすごく大事なことが見えてくる。


ただ一つ言い訳をするならば、

そうした流れであるはずの熊川芸術を

スポーツの様に喧伝されているのも事実である。

メディアは多分に瞬間的だから仕方ない部分もあるのだが、

そこに熊川さん自身の苦悩が感じられ、

その生き方に共感し応援しつつも

自らを振り返る大事な一日にしてもらったことに

本当に感謝したい。

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2011年9月29日 (木)

3年後への覚え書き

もうアイデアでは応えられない世の中に変わっていく。

あらゆるものに、本来あるべき姿が求められる。

本物、素直、丁寧・・・

これまで富めるものにしか手に出来なかった価値を

多くの人が必要とする。

小手先の表面的な解決策ではなくて、

根本的で、本格的なものを

手頃なコストと手軽な時間のなかで、以下に実現可能なものにするか。

勝負はその一点に絞られる。

期間は3年。

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2011年9月26日 (月)

ゴングは聞いたか?

現状批判や責任追求は

ホントなんの役にも立たんのだなぁ。

まずは自分から変えて、

少しでもいいからしっかり結果を出さなければ。

焦っても仕方ないんだろうけど、

こういろいろあるとやっぱ焦るわ。


もう試合は始まってんだよな。

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2011年9月 2日 (金)

さぼっちまったよ。

引っ越しがあったとか。

仕事のやり方を変えて慣れなかったとか。

ホームページのリニューアルにかまけていたとか。

盆休みもなく仕事が立て込んでいたとか。

言い訳はもういいです。

わたくし、更新をさぼっちまいました。

こころを入れ替えて、

もとい、心を入れてがんばりますので、

これからもよろしくおねがいします。

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2011年7月16日 (土)

禁止

車を運転中に

携帯電話をいじることは

どうやら禁止らしい。

どういう了見で人の行動を束縛するのか。

そこには理由があるにちがいない。


注意散漫になり、

きけんとのこと。


電話の内容に気を取られ

運転がおろそかになるという。

それは、意識の問題だ。


ならば、哲学はどうだ?

どのテーマも一度気になり出すと

かなり手強い。

携帯の日常的な会話とは

比べものにならないほど意識をうばわれるはずだ。

しかも、大抵は答えは出ない。

意識散漫な状態がずっとつづくのだ。

携帯電話よりも、

運転中の哲学を禁止にすべきではないか。

「あなた、いま哲学してましたね?」

こう問いかける時、

人は何で哲学しているかを判断するのだろうか?

遠くを見つめる眼差しだろうか?

それとも、明らかにそれとわかるしかめっ面か?

そこには人が哲学する時に見せる

明示的表徴はどんな状態かという問いがある。

残念ながら、それはまだ発見されていない。


ならば哲学はまだいいとしよう。

問題はそれほど逼迫していないだろう。

無理に運転中に考える必要はないじゃないか。


しかし、最近浮気がばれ、離婚問題を抱えた

社会的に地位のある人、の場合はどうだ。


これは、気になる。

気になるという目下人生最大のテーマだ。

なぜバレたのか?慰謝料は?会社は?

考え出すと運転どころじゃない。

人によっては哲学よりも重い可能性がある

しかし、これも哲学同様に明示的には表に出ない。


結局、哲学であろうが、離婚であろうが、

失恋であろうが、今夜の食事であろうが、

人は気になることは気になるわけだし、

それは規制出来るものではない。


ただ、携帯電話というわかりやすい道具を使った時のみ減点されるのだ。

思考するがゆえに人であり、

それこそが生きている証に違いないと思うのだ。

思考する自由はまだ侵されていない。


世界の発明家たちにお願いしたい。

人生のテーマや

日常問題を考えるために便利な道具は

どうか発明しないで欲しい。


車中では自ら思考する上では自由なのだ。


だがコミュニケーションこそが、

人の存在理由だと思う方は、

大いに声をあげてもらいたい。

わたしは思考派だが、コミュニケーションも思考とともに、人を成り立たせる車の両輪の様なものだと思っている。

応援するのはやぶさかではない。

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2011年7月15日 (金)

お父さんは心配性

今日は那須で現地調査。

と言っても

これからの計画敷地調査や

リフォーム物件の調査ではなく、

引き渡し後の建物だ、もう出来ちゃってる。


建物が使い始まって半年が経過したので、

実際の使われ方やデザインの効果、

使い勝手の検証など

お施主さんと一緒に

一日かけて

徹底的にしらみつぶしに確認しようってわけ。

こうした確認と検証につづく手直しは

完成時に100点はとても無理で

だいたい70点ぐらいがいいところの

まだまだ未熟な僕らには、

今や欠かせない大事なプロセスになってる。

正直、使い手の容赦ない言葉は、

針の筵だけどそこにこそ

次の一手のヒントがある。


モチロンその頻度やどこまで手を入れるのかは

その建物の用途や性格で違うんだけどね。

店舗や事業系の建物は、

その効果を最大限引だ出すまで、

また時流に合わせての舵取りまでも

ひたすら追いかけまくるけど、

住宅ならむしろ

住まい手に委ねて任せるような

デザインの放棄ともいえるスタンスが

丁度いいというのも最近わかったこと。


店舗事業系は選手を派遣しているみたいで、

住宅は嫁に出した感じ


って、判るかなぁ。

まぁ俺も嫁には出したことは無いんだけどね。


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2011年7月12日 (火)

もうやめじゃ!

最近太った。

ラケットボール現役の頃のあのくっきり割れてた腹筋が行方不明になって久しい。

もうこのぽっちゃりしたお腹の下にはいないんじゃなかろうか。

で、ちょっと考えて。節制してみたんよ。

お昼を減らしたり、夜中食うのを辞めたりね。

「今日はちょっと」

なんつって、断ってみたりね。


でね、結論。


あかんよ、これは。


なんと言っても、人間が小さくなる。


もともと大きくないけど、これじゃもっと縮こまっちまうよ。

ガツガツ食ってさ、ゴリゴリ働いて、
ガンガン呑んで、バリバリ遊ばんとね。

動きを小さくするのは、衰退の始まりや。

どんどん動いて、どんどん広げようぜ。


いいじゃん、バーンって弾けりゃ。

もともと、なんもないんだからさ。

弾けて飛んで、あとから考えようぜ。


なので、もう辞めです。

おーい、弁当箱、一番でかいの持ってきやがれ。

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