現代が抱える問題の多くは、その考え方、解決の仕方自体にあると思われる。
それは、昭和という時代が採用した全体から考えるという思考形態だ。
物事をまず、全体から俯瞰して、方針や行程、コストなど、大枠を決めてから取り掛かるという、ごく当たり前に行っているスタイルだ。
この全体から考えるというスタイルはいつ頃から誰が考え出したのか。
時期は不明だが、私にはこの「全体から考える」という方法は、何かを全体的にコントロールしようとする時に必然的に生まれた思考方法に思える。
考え出したのはおそらく支配者の側ではないだろうか。
誰かを説得し、合意を得たりねじ伏せたりしながら進めなければならないような事業は、明快な説明性と終始貫徹した態度が必要であろう。
定型的な想像になってしまうが、コンプレックスを原動力とした戦後の復興の中で、一市民に至るまで、全体から考えるという効率的方法の採用を迫られ、いつしか当たり前の思考方法として定着してしまったのではないだろうか。
そうした全体からの思考が当たり前の支配層の担当する軍事や政治に対して、狩猟や農業、漁業などの自然と相対する生活や日々の商いはそうした全体性とは本来無縁である。
であるならば平時において、一般生活者にこのような思考方法が必要だったとはとても思えない。
むしろ目の前の事象や状況に対する感度を上げること、そのための細やかな変化の兆しに対する知識やノウハウを蓄積し、その時々に応じてそれらをいかにく見合わせ事態に打開を図るかに終始したのではないだろうか。
それはいってみれば、部分から考えるという思考方法である。
部分からの取組の特徴は、非効率である。
全体を捉えて、力を配分る方式に比べ、毎回全力でことに当たるため、効率は圧倒的に悪くなることは明らかだ。
また、部分対応の結果、全体に筋が通らなくなり明らかな一貫性も諦めなくてはならないだろう。
そもそも生活と向き合うといことはそういう事である。
その場、その時の切実な現実に全力で向き合う事、その蓄積こそが全体であり、その輪郭は刻々と変わるのだ。
部分にこそそれぞれの生き様や哲学がもっとも明確に刻まれているのであり、全体性には無頓着に違いない。
生活とは効率も生産性も悪いものである。
だからこそ一日一日が充実し、それぞれの瞬間が生き生きと躍動感に溢れていたのではないか。
現代の様々な問題はそうした生活を無視した全体性から生じているように感じられてならない。
我々も全体からの思考はもうやめにしよう。
昭和の建築ほど全体性が発揮された時代はあるまい。
まだその流れは続いているが、我々の世代がいまここで時代を断ち切り、もう一度建築を生活に引き戻さなければならない。
日常の当たり前の生活に真正面から向き合い、ごまかしのきかない切実な現実に向き合う事。
そうした部分からの思考こそ、いま最も必要だと思うのだ。
その部分と向き合った成果をフィードバックし、さらに全体とどう関連づけるのか。
それは次の世代が向き合うテーマとなるだろう。
我らに課せられた断ち切るものとしての役割をしかと果たしたいと思う。
クローソーよ、我が立ち回りしかと見届けよ。