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2007年11月 4日 (日)

スイッチ

Nouhaikani脳はいかにして“神”を見るか」を再読。

宗教的な体験は人間の脳が持つ機能の一つ発現形態にすぎない、という刺激的な内容である。たしかに神が実在し現実に顕前したとしても、その道は神経経路を伝達する意外にはあり得ないというのは説得力がある。とすると、あくまで人が感じるリアリティは感覚器から神経を通ってもたらされる電気信号の複合的な組み合わせと海馬の選び出した記憶によってもたらされるものとすれば、リンゴと神のリアリティに差がないというのもうなずける。

最近のニュースで、保冷車が国会議事堂に突っ込むというのがあった。運転手曰く、

「神のお告げがあった。」

一般的に考えると、大の大人が保冷車で議事堂に突っ込むとどうなるかぐらいは想像がつくはずだ。
ここで彼は、かなり強烈な宗教的合一体験を経験し、どうにもハンドルを切らなくてはならないほどのリアリティを覚えたとたと考えられる。
一方で、とある僧侶が数年ぶりの苦行に挑み、みごと達成したとの報道もあった。なんでも9日間飲まず食わずで真言を唱え続けるらしい。苦行後にはリハビリが必要なほど、凄まじいものらしい。しかし、その僧侶が悟りといわれる宗教的合一を達成したかは定かではない。

突然現れた啓示と苦行の果てに求める悟り、人間が感知しうるリアリティにおいて程度の差こそあれ、同質のものであるとすると、少々複雑な気分である。
壮絶な苦行の果てに得られる神秘的な体験が、運転中のおじさんに起きるとなると、これはやはりそれ自体はあらかじめ脳が持っている一機能で、単にスイッチの場所が判りづらいだけなのではないか。尤もその機能が人がこれから必要としているのか、それとも忘れ去ろうとしている機能なのかは、歴史の判断を待つよりないが、孤独の集積度が増しつつある都会にいると、すぐにでも発現して欲しい機能であることは確かである。

「脳がとろけるスイッチ」

どこか判り易いところについてないものか、と思わず車窓に写るあたまを見ながらしばらくまさぐってみた。


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